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メンヘラおばさんの日常

氷河期世代の考え方、その一例

同級生が偉い人になっていた

 先日、あるドラマを観ていたら、クレジットに見覚えのある名前が載っていました。大学の同級生の名前でした。ググってみると顔写真が出てきて、「うわ、おじさんになったな」とは思いましたが、たしかにその人でした。監督だかディレクターだか、なんかそんな偉い人になっていました。

 

 以前にも、別の同級生が脚本家としてドラマのクレジットに載っていたことがあります。しかもドラマはお茶の間に大好評で映画化までされて、私も劇場まで足を運びました。原作の小説も読んでいたのですが、さらにわかりやすいように上手に改変されていて、「これがドラマを作る人の力かー」と感心しました。ただ、その脚本家の人は、学生時代からシナリオ学校に行ったり現場の仕事を受けたりしていたようで、授業で顔を見ることはあまりありませんでした。直接話したことなんか1回もないと思います。なので、「やっぱり夢に向かって一直線でやっていったんだなー、すごいなー」という感想しかありませんでした。

 

 しかし、監督だかディレクターだかの彼は違います。普通に授業に出ていたし、バイトしたりサークル活動したり、ごくごく普通の健全な大学生活を送っていました。控えめに言ってもコミュ障男子としか形容できない男子学生と、ザルというより枠という勢いで酒を飲むことにしか関心がない女子学生によって形成された私たちのクラスにおいて、唯一まっとうな人間が彼でした。逆に「こんなにまともな人が、なぜこの学科に来ているのか」という疑問さえ私はひそかに抱いていました。

 

 やがて氷河期も氷河期、マンモスが走りながら氷の柱になるようなクソ寒い就職氷河期真っただ中の就職活動が始まり、私たちはESの山に埋もれたり心が折れたり妥協したり開き直ってゲーム廃人になったり研究者になる気もないのに院に逃げたりもう少しで仕上がる卒論をゴミ箱に捨てて留年したりスーツだけ買って満足したり爽やかに無職デビューをキメたり、まあ各々そういうことをやっていました。

 そんなクソ虫を集めたクラスの中、唯一キラキラときらめく内定を取得したのが彼でした。就活において必要とされるのは、専門分野にのみ特化した変人ではない。専門分野を適正に愛し(ていることを的確に表現でき)つつ、広く平和な人間関係を築き、各所でウザがられない程度のリーダーシップを発揮できる、とことんまっとうな彼こそが、就活およびその後の社会生活において必要とされる人物であったわけです。

支離滅裂な嫉妬と反省

 彼の名前を見たときにまず思ったのは、「彼はこんなすごい人になっているのに、私はなんで今ここにいるんだろう」でした。

 もちろん性格の良さとか身体の丈夫さとかは、私より彼のほうが格段に上だろうけれども、同じ大学で同じ授業を受けていたのだから、頭の中身としては同じぐらいであったはず。また、授業中の様子から判断するに、リサーチしてまとめて発表するという能力については私のほうが上だったように思う。どちらもギョーカイと言われるような筋にコネクションがあるわけでもなく、地方出身の普通の大学生だった。

 なのにどうして彼の名前がテレビの画面に映っていて、私は実家の子供部屋で死にたい死にたいと言いながらずるずる生きているんだ。どうして私の名前があそこに映ってないないんだ。おかしいじゃないか。

  ……で、その5分後には、入社してから彼がいろいろと苦労したであろうことや、耐えられなくて辞めていく同期もいたであろうということ、それでも彼は辞めずに今与えられた仕事を懸命にこなして、その結果としてこのドラマにおいて監督だかディレクターだかのポジションを獲得したこと、私の感想としてはこのドラマがちゃんと成功しているであろうこと……を考えて、自分のめちゃくちゃな嫉妬が恥ずかしくなりました。反省の沼に浸かっていると、次の思考が私を支配するようになりました。

 

 同じ大学に入れて、たぶん同じぐらいの金(教育費、上京してからの費用など)かけて育てたのに、私は彼みたいにちゃんとした大人になっていない。親は私に多額の投資をしたが失敗した。私は欠陥商品である。

人間を商品として見ている

 はい、ここポイントですね。氷河期世代の人間って、人間を人間としてあまり見てないような気がします。「労働用の商品として、いかに価値があるか」ということを考えてしまうんです。壊れてしまったらそこで終わりです。壊れるのは自己責任です。だからすぐ「働けないなら存在する価値がない」「死ぬしかない」って思っちゃうんですよ。

 

 おそろしいことに、氷河期世代は他人に対してもそういう考え方をしてしまいます。たとえば高校の同級生が理系の大学院を卒業して一流企業に就職したのですが、入社数か月で産休に入ったという話を聞いたことがあります。そのとき私が思ったのは、「あーあ、その企業、来年から理系院卒女子の採用やめちゃうんじゃないの?ただでさえ院卒女子って厳しいのに……」ということです。「○○ちゃん出産かー!すごーい!おめでとうー!」じゃないのです。「周りの迷惑考えろよ」が先にきます。

 父親がアルバイトを半日で辞めてきたときもそうでした。そのアルバイトには「65歳まで」という年齢制限があったのですが、65歳を超えていた父は頼み込んで面接を受け、そのアルバイトをすることに決まりました。しかし、初日から「もう辞めます」と帰ってきてしまいました。仕事が予想よりきつかったのと、仕事仲間に相性の悪い人がいたから、だそうです。それを聞いた母は「合わないならさっさと辞めて正解よ」と言ったのですが、私は別のことを考えていました。「お父さんのせいで、その会社はもう絶対に65歳以上の人を面接しないだろうね」と思いました。「後に続く人の迷惑考えろよ」と思ったのです。さすがに言いませんでしたけど。

 「そんなひどい考え方するのあなただけでしょ」って言われるかもしれませんが、氷河期世代のみなさん、どうですかね。私の文章読んで「甘え」って思いませんか。思うでしょ。

人生のアガリを目指す、アガれなかったら自己責任で降りる

 大学の同級生の1人(こちらは女性)はわざと留年し、新卒カード切って就活再チャレンジしたんですけど、まだ氷河期が続いていたので、「なぜ留年したんですか」という質問が増えただけだったそうです。で、地元の会社に入ったら事務所に監視カメラがついてて社長に監視されてることが発覚して辞めて、転職したらクソほど忙しくて帰れないから辞めて、転職したらやっぱりクソほど忙しかったけど職場で好きな男性ができてその人と結婚して、現在は専業主婦です。旦那様はなかなかにお稼ぎになっているようで、ピッカピカの新築オシャレマンションにお呼ばれしました。そのときに彼女が赤ちゃんをあやしながらふと言ったのです。

私は○○さんと結婚できたから、ようやく人生アガリって感じだけど。○○さんと出会わなかったら、今のメンヘラちゃんと同じ生活をしていたかもしれない。それに、結局自分でお金を稼げなくて専業主婦になるんだったら、あんな受験勉強を頑張る必要なかった。私のあの頑張った時間は何だったんだろう」

 私は何も答えられませんでした。彼女の言う「頑張った時間」に見合う報酬は、「すてきな奥さんになること」ではなかったのですから。でも、「頑張った時間」がすべて無駄だったと認めるのは、あまりにもつらいことです。

 

 働ける商品であり続けることが正義、動けなくなったら自己責任。とりあえず人生ゲームの「アガリ」を目指さなければならなくて、ゲームから降りるときは周りに迷惑をかけないように最善の方法をとるべき。私たち氷河期世代は、どうやらそういう価値観のもとに生存しているような気がします。

 当然、この価値観は誰も幸せにしません。しかし、自分に対しても他人に対しても、この価値観を強制することがやめられないんです。「生きているだけで価値がある」みたいなことは、全然考えられないんですよ。

 バブル世代の女性に直接聞いてみたことがあるんですが、自己肯定感は「めっちゃある」とのことでした。「何とかなるっていう、全く根拠のない自信がある。これはたぶん私がバブル世代だからだろうなって思ってる」と語る彼女は、子育ての傍ら家計のためにパートで働く奥様でしたが、ああ~うらやましいなあ~って思いました。自分を信じて生きていける人はまぶしい。話していて楽しいし、きっとみんなが彼女のことを好きになる。ちょっと生まれた年が違うだけで、どうしてこうも見える世界が違ってしまうのか……。

ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く

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