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メンヘラおばさんの日常

うっかり自殺してしまうケースについて考えてみた

 本田選手のツイートに関するブログ記事を言及していただきました。ありがとうございます。

fukuhauchi-onihasoto.hatenablog.com

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hituzidameiko.hatenablog.com

 さて今回は、本田選手や我々がイメージする「自殺」とはだいぶ違う感じの自殺もありうるのではないか、という話をしたいと思います。

 ひつじ田さんの記事で紹介されている『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』という本に、「そんな気もないのにうっかり自殺しかけました」という趣旨の言葉が出てきます(ひつじ田さんのブログを読んで買いました。おもしろかった)。この作者さんは「過労」がトリガーになっていることがはた目から見て一瞬でわかるんですが、自殺に至るトリガーがわからないケースもあるんじゃないかと思うのです。本人にも、周りの人間にもわからない。でも、なんでか知らんがうっかり自殺してしまった。そういう場合です。

 なぜそういうことを考えたのかというと、KYOTOGRAPHIEで吉田亮人さんという方の展示を見たからです。

 

www.kyotographie.jp

小学校教師を辞め写真家の道を選んだ1980年生まれの吉田は、写真家を志した頃から、年下の従兄弟と、従兄弟が生まれた時から生活を共にする祖母の関係性を撮り続けていた。80歳を超え、体の弱くなった祖母を献身的に介護していた従兄弟が、ある日突然姿を消す。そして約1年後、落ち葉の積もる山中にて、遺体が発見される。23歳の若さで自ら死を選んだ従兄弟と、彼が発見された翌年に他界した祖母との、どこか不思議な、けれどまばゆい生の日々を追った記録。

 

  写真展は、吉田さんのおばあちゃんと、吉田さんのいとこにあたる青年との、2人だけの日常生活を映し出すところから始まります。背中がまがったおばあちゃんの手をひいてスーパーに買い物に行く場面、青年がふざけておばあちゃんのほっぺをひっぱる場面、青年がおばあちゃんと寄り添うようにしてご飯を食べる場面。

 見ていて最初に「あれっ」と思ったのは、青年の服です。彼自身は看護を学ぶ学生でもあり、見た目も「ザ・好青年」といった雰囲気なのですが、着ている服がなんだかおかしいのです。めっちゃイキった刺繍入りのスタジャンとか着てるんです。スーパーに買い物に行くだけなのに。たまたまその地域で刺繍入りスタジャンがはやっていたのか、安売りしてたから買っただけなのかはわかりませんが、とにかくまあ、似合ってない。なぜ彼はこれを着ているのか。

 次に違和感を覚えたのは、2人が1つの部屋にいて、座っている場面です。おばあちゃんは吉田さんと話しているのか、テレビでも見ているのか、そんな感じで座っています。そしていとこの青年は、スマートフォンを見ています。SNSを見ているのか、ゲームをやっているのかわかりませんが、とにかくスマートフォンを見ています。スマートフォンしか見ていない青年が、「いつもの居間」という空間から離脱しているように見えて仕方ありませんでした。彼の周りだけ結界が張られてるというか、彼だけ異次元にいるみたいというか。で、楽しそうにしているならまだいいんですけれども、彼の目には何も映ってないみたいに感じられました。しいて言うなら虚無が見えている。そういう目に見えました。

 

 ここから先は完全に想像です。

 おばあちゃんに育てられた青年は、成人してからも彼女と暮らし、介護する生活を選んだ。本人も当然だと思っていたし、親戚や友達も当然だと思っていた。孫がおばあちゃんを助けるのは当たり前。今まで育ててもらったんだから恩返しして当たり前。これからおばあちゃんを看取るまで、今の生活が続くはずだった。

 でも、おばあちゃんが死んでしまったら?

 おばあちゃんは遠くない将来に必ず死ぬ。おばあちゃんが死んだ後も、青年の生活は続く。おそらく、おばあちゃんが遺した家に住み、大学を卒業し、家から通える範囲の病院や医療施設で、不特定多数のおじいちゃんやおばあちゃんを介護して暮らす。資格をとったり、昇格したりするかもしれない。周りにあーだこーだ言われて結婚なんかするかもしれない。でも、基本的にはたぶん今と同じ。同じ家に住み、同じ人たちと顔を合わせて、同じ地域で暮らす。今度は、自分が死ぬまで、だ。

 

 ここではないどこかへ行きたい。私ではない私になりたい。

 そういう気持ちを1度も抱かない青年期なんて、きっとないと私は思う。

 もし彼が、自分自身そういう気持ちを抱いていることに気づいていなかったなら。あるいは、気づいているけど気づいてないふりをしていたならば。抑えきれない気持ちが、どこかに歪みを生じさせてはいなかっただろうか。たとえば、似合わない服を着てみたり、スマートフォンの向こうに広がる無限の世界に没入したり。

 そして、ふとしたきっかけで。誰にも何も告げず、「ちょっと現実逃避したいかも」ぐらいの気持ちで、バイクに乗って知らない道を走ってみようと思ったのではないか。ほんのちょっと冒険するつもりで。そして、すぐに帰ってくるつもりで。

 

 吉田さんの写真の展示は、そこから個室に入ります。

 暗くて狭い部屋の中には、失踪から1年後、青年が発見された山中の風景が示されています。一面の落ち葉に包まれた空間に立ったとき、私は「ずっとここにいたいなあ」と感じました。ほどよい暗さ、ふかふかの落ち葉、人間の気配さえない山の中。寝っ転がってぼーっと空を見ていたいなあ。帰りたくないなあ。日が暮れてきたけど帰りたくないなあ。おなかもすいてきたけど動きたくないなあ。クマが出るかもしれないけど逃げる気力ないなあ。気温が下がって手足が冷たくなってきたけど声も出せないなあ。このまま誰にも見つからず、眠ってしまいたいなあ。ずっとずっと、ここでじっとしていたいなあ……。

 結局、ほかのお客さんが入ってくるまで、私はその部屋で三角座りをしていました。青年が最後に見たであろう景色は、不思議と安心感があり、そこから動けなくなるほどの重力も持っていました。

 なんだかもう、死んじゃってもいいかなあ。

 そういう気持ちを丸ごと受け止めてくれそうな、そういう景色でした。

 

 ……でね。そういうわけで。

 私も、そういう場所にそういうタイミングで足を踏み入れてしまったら、たぶん帰らないと思うんですよね。うっかりとらわれて、帰れなくなる。これ完全に「うっかり死に」ですよ。

 もし、この青年が本田選手のツイートを読んだとしても、自分とは関係のないことだと感じていたかもしれません。何か明確な悩みごとがあるとか、落ち込んでいるとか、周りの人から見て様子が変だとか、そういうのが一切なくても、人は意外と簡単に死んでしまう。うっかりあっさり死んでしまう。人間ってそういう、理屈ではなんともならない、曖昧な生き物だと思うんですよ。

 だからね、そういう意味でも、「STOP自殺!」みたいな言葉って無意味だし、無力だなって思います。本気で毎日死にたい人にも、あるときうっかり死にそうな人にも、届かない言葉です。

 

 じゃあ何が届くのか。

 これは希死念慮のある私が言っても説得力ないんですけど、文学とか芸術とか哲学とか、そういうものじゃないんですかねえ。カルチャーってやつ。カルチャーセンターのカルチャーではないやつ。腹の足しにならなくて、お金儲けにもつながらなくて、就職の役にも立たない、今の日本がどちゃくそバカにしている、「教養」ってやつです。美しいものを美しいと感じられて、心揺れる体験をして、ときには涙を流して……そういうやくたいもないものどもこそが、きょう1日を生きる理由になるんじゃないのかな。今のところ、私はそう思っています。いつ死ぬか知らんけど。

 

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