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メンヘラおばさんの日常

メンヘラさんが見ている世界

 こんばんは、メンヘラおばさんです。

 8月の間、あまり本が読めませんでした。図書館でわざわざ予約して借りた本を期限内に読み切れず、そのまま返してしまうこともありました。「これ読みたい」と思って確保しておいた本が積み上がっている状態は、自分にとっては結構な異常事態でした。子どものころから、朝食時にはシリアルや牛乳の箱に書いてある文字を無意識に目で追うぐらいの活字中毒者だったものですから。

 ですが、ふと書店で手に取ったこの本のページを開いてから、するすると活字が脳に入ってくるようになりました。 

薬屋のタバサ (新潮文庫)

薬屋のタバサ (新潮文庫)

 

平穏な時間。それ以外に欲しいものなんて何もない――。山崎由実はすべてを捨てて家を飛び出し、知らない町の古びた薬屋に辿り着いた。店主の平山タバサは、由実を薬局の手伝いと家事全般の担い手として住み込みで雇ってくれた。見ず知らずのわたしを、なぜ……。謎めいたタバサの本心はわからぬままだが、由実は次第に新しい生活に慣れてゆく。誰しもがもつ孤独をたおやかに包み込む長編小説。 

 

 と、内容紹介はこのようになっているのですが、実際読んでみるとちょっと違うというか、かなり嘘というか……。

 主人公の由実が住みついた街がなんとなく不気味で、街でぽつぽつと起こる奇妙な出来事ひとつひとつに対する合理的な説明が一切ないんですよ。読書メーター(読書記録をつけるウェブサービス)を見ると「よくわからなかった」という感想が結構ついています。

 しかし、なんとなく不安で不気味な雰囲気を覚えながらも、私はこの物語で描き出される世界に親しみを感じてもいました。もしかしたら主人公の見ている風景は、うつ病の人が見ている世界に限りなく近いのではないか、と。

 

 

 本文からいくつか引用します。

 何もかも、申しわけありませんでした。

 わたしは、また、つぶやく。

(p.5)

 目的もない歩みを散歩と呼ぶのならば、わたしの人生そのものが、散歩のような気がしてくる。

 (p.18)

  哀しみが哀しみをひきつれて浮き上がる。忘れかけていたできごとが、どんどん鮮明になってくる。なぜこんなことになってしまったのか。何が悪かったのか。苦しい。わたしは、吐くように一晩泣いた。

(p.30)

 なにもかも、夢であるように思えます

 どうしても、どうしても

 (p.121)

 「どういうふうに思えばいいのか、はっきりわたしに、分からせてください」

(p.174)

 うつろのまま歩いたことも、自分の足で歩いていたと、選んだ道だと言えるだろうか。海に浮かぶくらげのように、さまよっていただけだったのに。意思とは関係なく、足が動いたのだ。誰かの脳がわたしに組み込まれたかのように、ふらふらと電車に乗り込み、あの駅の名がガラス窓の向こうに見えたとき、いつの間にか足を進めていた。そこには、「選ぶ」と呼べるほど明確な意思はなかった。

(p.178)

「桐江さん、わたしは、ほんとうはとても、こわいのです。こわくてこわくて、ならないのです。なにもかもなかったことになればいいと、ふと思えてならないのです。そして、そんなふうに思ってしまうこと自体が、こわいのです」

(p.216)

 

 改めて並べてみるとこれ、ウワアアアッとなりますね。ふだん私が考えていることとほぼ同じだよ。小説だと「お話の展開を追う」ことに気を取られるので、そこまで気にならないんですけどね。うつ病の人が日々感じている離人感、不安な記憶の反芻、自己否定、自分で物事を決められない……等々の感情が、うまいことフワフワと描かれているなあ……と思います。 

 読書メーターでは「痴呆の人が見ている世界かもしれない」と書いている人も見かけました。ラストの展開まで含めると、たしかにそれっぽくもあります。このお話をどう解釈するかはさておき、好き好んでやっているわけではないけど、こういうふうにしか世界が見えない人がいる、ということが、この小説を通してちょっとでも伝わればいいなあ、と思ったのでした。

 

 さて、今回「自分と同じこと考えてる人が出てくる物語」を読んだことをきっかけに、私はまた活字が読めるようになってきました。これはたぶん「すべての音楽がうるさくて聴けない」という人が鬱ロックなら聴ける、みたいな現象だと思います。

 まともにバリバリ働いているひとしか出てこない小説や、「人生を変える」「なりたい自分になる」「とにかくウツなOLが1か月で自分を変える」みたいな本ばかり読んでいると、やっぱり精神衛生上よくないです。やめましょう。